なんだか聴いていると変な脳内麻薬が出てくるくらいクセになりそうなんで、いつも記事書いているとき曲はひたすらかけっぱなしにするんですが、やめておきます。どこを切り取っても耳に残る、すごい曲です。ヤバイです。
「桜」は散るがゆえに美しい、というのは、よく言われることです。ただきれいだからってだけでなく、その淡さ、儚さが、日本人の心をとらえるというのはあると思います。それは死ぬことと見つけたりの武士道や神風特攻精神とか、そういう方面もあるのかもしれませんが、やっぱり四季が移り変わるから、ってこともあると思うんですね。むしろあんまり言われない気がしますが。
季節は終わってしまう。でも二度と戻らないわけではなくて、またそのうち巡ってくる。そんな円環が「桜の散るさま」や「夏の終わり」や「紅葉と落ち葉」や「雪解け水」を風流なものとして見るワビサビ的な美学を日本で発達させたんだと思ったりするわけですが、あんまり話がズレるのもなんなので強引に戻すと、ここで「季節はまた巡ってくる、でも、君との時間は戻らない」とすると、ワビサビ的な風流さの上にさらに追慕の念がかぶさって、とても強い感情を表せるわけです。
この歌の『花びら舞い散る』はきっと花吹雪で、満開の桜の中ぽつんと独り、みたいなイメージだと感じるわけで。そうすると「季節の終わり」表しているってのとはちょっと違ってきます。ただ、むしろ「終わり」よりも「真っただ中」の方が、『君』がいないことを強く意識させられるんじゃないかと。「移り変わり再び巡ってきた季節」を意識させられればさせられるほど、「もう帰ってこない君」の不在感は鮮やかに描き出されます。舞い散る花びらの美しさに『忘れた記憶と/君の声が戻ってくる』『目をつむれば君が傍にいる』と、思い出は激しく呼び起こされつつも、肝心の『君』はどこにもいないのです。
単純に桜の花と「別れ」の情景を重ねて歌い上げた森山直太朗「さくら(独唱)」よりも、技巧的に作ってある感じですね。
上で触れた季節の円環がどうこうってのは、もしかしたら、和音進行/リズムやストリングスのトラックが、なぜかひたすら同じように刻まれ続けるだけなのにもかかわらずひどく聴き手を揺さぶってくる、という現象にもつながってくるのかもしれません。今回の「さくら」のように、マイナーに収まっていくコードを日本人が好むのは、散りゆく花、過ぎ去る季節の寂しさを愛でる土壌があるからかなあと思ったりもします。
あ、カップリングの「ケツメンサンバ」は、中身は「はじまりの合図」をラテンにしただけのような普通の陽気な音楽だったので、もっと毒気とか期待していた自分としてはやや拍子抜けしました。
ケツメイシ
コメント(0)| Track back(0) | 2005年04月05日
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