<劇的過ぎないからこそ、旅立つ日の「生」の息遣いが聴こえる>
住み慣れた街を離れるときの心情をつづった、上京の歌。
現代の悩める思春期の若者の感覚をそっくりそのまま見せてくるような詞がこの人の特徴だ、と自分は個人的には思っていて。辛さ苦しさを前提として受け入れて強く生きていきたい、みたいなそんな思いをつづった詞は、自らだけじゃなく同じ境遇の聴き手の共感を揺さぶる、というような。
でも今回は、ちょっと違います。
「feel my soul」、「Tomorrow's way」、「LIFE」といった一連のシングル群は、「先が見えない、傷つくことばかりで大変な今」を描いて「でも前に進まなきゃ」(「進もう」とまでは言えないのがポイント)という流れがありました。
対して今回の「TOKYO」は、街を離れ東京に向かおうとする時間の流れがある一方で、メッセージの流れはありません。ただその時その時に感じていたとりとめのないことを、そのままぽつぽつと並べているだけなのです。
大げさな出来事はありません。『駅まで向かうバスの中/友達にメールした』り、『走り出した電車の中』では『少しだけ泣けてきた』り、小説やドラマじゃカットされてしまうのであろう、派手ではないけれど等身大の行動や感情がつづられているわけです。
主人公は、もしかしたらもっと劇的なものをこの日に想像していたのかもしれません。ドラマならば、感動的な音楽が流れて寂しさと悲しさで胸がいっぱい…という場面ですからね。でも実際には『駅のホームで 電話もしてみた/でもなんか 違う気がした』と、どこかイメージとは違っていたりする。もちろん感慨はあるけど、わりと淡々とした描写の仕方をしています。
でも、そんな平凡な旅立ち、平凡な寂しさだからこそ、『何かを手放して そして手に入れる/そんな繰り返しかな?』など唐突に差し挟まれる思考が、ドキッとするほど聴き手に迫ってくるんです。場面場面に等身大を超えるドラマ性がないからこそ、こうした言葉に「ふと思い浮かんだ」っぽさ、生々しさがあるんですね。
人間、いつも論理的な思考をしているわけじゃありません。「これこれこうだった、そしたらこうなった、だから/だけど私はこう考えた」みたいな流れのある文章は、説得力はあるけど、実際のところ人間はそんなに感情を整理なんかできるわけはないんです、ましてや特別な場面なら。
今までのYUIの曲は、論理の流れがありました。でもこの曲は『答えを探すのは/もうやめた』との言葉どおり、流れがないのです。脈絡もなくさまざまなことが思い浮かんで、だけど/だからこそ、「上京」の特別な空気感、主人公の息遣いが伝わってくるように感じます。
YUI
コメント(0)| Track back(0) | 2006年03月04日
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