<他者とわかりあう手前の「ゆるぎない」自己確立>
今年、「衝動/結晶」に続く2枚目となるB'zのシングル。相変わらずのハイトーンボーカルと、熱を持ったギタープレイは、これぞB'zといった風格を感じさせます。
独特の声でのシャウトは力任せなようでいて、実は『笑いながら別れて 胸の奥は妙にブルー』となってしまったり、『まっすぐ優しく生きてゆきましょう』とあまりにも正しい生き方を呼びかける、むしろナイーヴな一介の人間の姿が見えてきます。
強く叫ばれるメッセージの発信源は、悩んだり迷ったりする等身大の「僕」。10年前からこのスタイルはずっと同じだなあ、と感じます。日本を代表するビッグヒットプレイヤーでありながら、ソロをこなしたり、マンネリだと言われようとも、ただずっと自らのスタイルを貫き続ける。この彼らのスタイルこそ、まさにこの曲でまっすぐに歌われている「ゆるぎないもの」そのものなのではないでしょうか。
…と、こんな感じでまとめると音楽誌っぽいでしょうか。「だ・である」調にして読んでみてください。↑
すいません、締めの言葉(彼らのスタイルこそ〜ってとこ)が思い浮かんだので、使いたくなっちゃいました。このブログの方針としては、もうちょっと違う角度からも見ていきたいと思いますので、以下、続きます。
「ゆるぎないもの」を声高に掲げる姿勢は、おっ、とちょっと嬉しくなりました。分け隔てなく片っ端からレビューをするこのブログで言うのもなんですが、現代って相対主義的な観念が正しくて、絶対的な何かを求めることってなんだか悪く言われがちじゃないですか。ヒット曲の詞にしても、わかりあう、というような内容が重視されたり、誰もがそれぞれ世界にひとつだけなんだ、とか、そういった通念の上だけで作られていたりするものが多いなあと感じていて。
そこで「ゆるぎないもの」。
この「ゆるぎないもの」がたとえば「君」とかだったらまた話は違ってくるんですが、そうじゃない。自分自身を強く持て、ということなんですね、この曲は。『いのちの証が欲しいなら/うたおうマイライフ』と、自らの生き方を貫く芯のようなものを持ち、そこから外に広がっていこう、という歌なんだと読みました。
非常に力強く響いてくるこの歌は、しかし、それほど大きく一歩を踏み出しているというわけではありません。『あなたの前じゃいつでも 心と身体が/ウラハラになっちゃう』だから「ゆるぎないもの」を持って自分を伝えようとしている。『誰もがそれを笑ったとしても』びくともしないでありたい。それ自体は素晴らしいことですが、でも、他人と「わかりあう」ところまでには至っていません。ゆるぎない自分で『思い切りあなたを抱きしめたいよ』と歌いはするものの、抱きしめ返してほしいとは言いませんし。誰かに何かを求めるような感情が、この曲からは見当たらないのです。
それは別に「独りよがり」だということではなく、ただ「相手」とのコミュニケーションの手前、「自分」と向き合うことだけに焦点を当てた結果だと予測します。こんなに他者へ向かう感情がきれいに削げ落ちているとはちょっと考えにくいです。
前回の「衝動/結晶」でも感じた、現代社会の病からの「リハビリ」的な立ち位置が、今回もこの点で感じられるのですね。あくまでも正論ではない「等身大」の視点でメッセージを投げかける稲葉浩志の詞が、現代らしい「等身大」を探り当て、体現した結果なのかもしれません。
B'z
コメント(0)| Track back(0) | 2006年06月30日
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