<内面から出てくることはなく、しかし別れのあとにもきっと続いていくだろう感情>
この夏、映画とドラマで大きな話題を巻き起こした作品「タイヨウのうた」。映画版での主題歌は主演クレジットが混じっているYUI for 雨音薫「Good-bye days」でしたが、そのあとを受けたドラマ版は柴咲コウ。すっかり当たり前のように自身が出ていないドラマ主題歌を歌うようになっていますが、これって珍しいケースですよね。むしろ最近は自分の出演するドラマは歌っていませんし。「世界の中心で、愛を叫ぶ」は映画版に出演してドラマ版は「かたち あるもの」で主題歌を歌う、というよくわからない事態になっていましたし…
この人の書く詞は感情移入型ではなく、どこか客観的な視点から言葉を紡ぐフシがあるので、そういう意味では主演+主題歌とかにはむしろ向かないのかなあとも思いますが。
ハイテンポで進む、ピアノがジャジーさを漂わせつつ、夏の海岸の情景を描いている一曲。タイアップ先のお話の舞台が湘南だということからか、『路面電車』も登場します。しかもサビ頭ですから、すごいインパクトです。
この路面電車をはじめ、具体的な単語が多数登場しているのが特徴で、しかも夏っぽさを意識させつつ、ありふれた描きかたではなくわざと断片的に、ぼかして書いている感じ。これは『いつもの通り道で待ち合わせ みんなでしよう』とか『どうせ海岸かそこらあたり』とかの不明瞭な言い方とともに、≪自分の頭の中のよしなしごとをそのまま出している≫ような印象を与えられます。誰かに呼びかけている、いやその前に文章に書き出してはいるものの、そうじゃない、脳裏に浮かんでは消える取り止めのない思考の泡を取り出しているんだ、といったように。
つまりこの詞は、誰かに届けたい言葉ではなく、ある夏のひとコマにおける自分の内面の自動筆記、という体裁なのですね。自己完結している、ということです。だからいまひとつ意味が通じないような部分もあり、「いつもの」「みんな」などに何の説明もなかったりするわけですね。
『ボーダーか焼けた肌かワンピース/個性はないけれどかわいくてうらやましい』なんかには、夏に憧れつつも一歩距離のある立ち位置を感じることができます。「みんな」の輪の中にいながら、あれこれと思考は目まぐるしく移り変わります。その中で、『みんな前 見てるすきに/ぎゅっと手を引いてほしいんだ』『どこから恋になったのか…』と、仲間のうちの一人である「きみ」への想いが挟まれます。それとなくモーションをかけたりもするけれど、だけどやっぱりいまの関係も心地よくて、一線を越えることはできないまま。
そして、『もしかしたら僕ら最後かもしれないけど』と、なんとなくではあるものの、別れを予感しています。しかし、「きみ」への感情も、別れの予感も、まったく口に出すことも表現することもないままで、そんな自分自身を「懐しのラムネ」の泡にたとえて『なんにも出来ない僕の気持ちの表れ』と言ってみたりもしています。
言葉で「きみ」やほかの「みんな」に感情を表すことはないまま。でも、そんな思いを内側に抱えているからこそ、夏の湘南の情景のひとつひとつが胸に迫ってくる。きっと『「過ぎた夏の記憶」に収まる』…「過去にしたくない、後悔したくない」ではなく、「過去になってもただひとり思い続ける」そんな種のセンチメンタリズムがこもっている一曲です。
にしてもこの人は、速い曲になると、やたら難しくセンスが必要な音楽になりますね。「Glitter」とかもそうですが、リズムがかなり崩されていて、一筋縄ではいかない感じ。一般的にはバラードイメージが先行している歌い手だと思うのですが、そうではない楽曲で他にない個性を出してうまくバランスをとっているのかなと。
柴咲コウ
コメント(4)| Track back(0) | 2006年11月21日
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