あー!ああー!もう!
曲は、今までの槇原敬之を振り返ってもまさに珠玉、最高傑作といってもいい出来なのに。なのに、それなのに、なんだよこの詞。
前回「優しい歌が歌えない」で散々言いましたが、槇原の詞は例の事件以降、現実感を伴わない抽象的なものばっかりになってしまっていて。今回は、その極みにあります。具体的なのは「僕」だけで、それもどんな人間かは描かれない。あとはみんな「素敵なもの」とか「誰か」「人」とかばかり、「それ」という指示語も出まくりです。
寓話仕立てになっているわけですが、「僕は素敵なものを拾ったけど、欲しがってる人がいたからあげた、まあ嬉しそうだしよかった」というのを2回繰り返して、それで2コーラスをまるまる費やす必要はあったのか。すごくストーリーが薄い上に、出てくるキャストの顔も何も、具体的な事物が出てこないから、余計空疎に感じます。もうちょっとは面白く書けるはずですよ、これ。
だけどね、曲がいい。だから感動できる。してしまう。
まずシャッフルのリズムの穏やかな揺れがあって、メロは静かに、サビは揺さぶるように動く旋律、そしてその上に乗るハイトーンの優しさ、ドラマティックさ、説得力。歌声とメロディが見事にかみ合っていて、ほんとうに寒気がしてきます。
「素敵なものをあげたときのみんなの笑顔が、僕の一番欲しかったものだ」と気がつくラストの盛り上がりのとことか、得体の知れない凄みがでてきていて、もう抽象的すぎるとか中身が冗長すぎるとか、細かいこと言ってないで、浸ってしまいたくなります。
でも、やっぱり、なあ。
まあ、今回はもともと外国のアーティストに英語で提供した曲を日本語に直してセルフカバーということで、英語だともっと見栄えよかったんだろうなあと思います。
また、内容を寓話化、抽象化することで、なんにでも当てはまる普遍性を曲に込めようとした、という意図もあるんでしょう。
しかし。以前の槇原は、本当に様々な、現実に肉薄した詞を書いていたわけで。細かいシチュエーションを曲ごとに設定して、言うなれば個人的な物語をひとつひとつ紡いでいたわけです。だけどそれはリアルだからこそ聴き手の共感を呼び、たくさんの人に受け入れられて、きっちりと普遍性を獲得できていたと思うんです。
でも、もう槇原はその方向には戻っては来ないようです。「世界に一つだけの花」ではまだ「花屋の店先」の描写がありましたが、あれだって視点は登場人物というよりは歌の外、語り手、いわゆる神の視点からの書かれ方でした。「優しい歌が歌えない」では辛うじて自然だけが残り、そして今回はもう、人の顔も自然物も何も、固有のものはすっかりなくなってしまいました。
悟りの境地に達したかのようにもとれる、言葉の連なり。それを類いまれな声で歌い上げる槇原敬之は、どこか聖者のようにも見え、本人にしても、悔い改めて世の中に報いるという気持ちが本心からあるように思えます、が、自分にはそれが素晴らしいことだとは、どうしても思えないです。
でも、そういった状況や心境の変化から、今の曲の穏やかさや凄みが出てきている面もかなりあることは否めないので、複雑かつ微妙な心境です。
曲はほんといいんですよ、曲は。聴いていて感動できます。でも自分はしたくないなあ、ということです。
槇原敬之
コメント(6)| Track back(0) | 2004年08月20日
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