<退廃と清々しさが奇妙に入り混じり、内向きに反転する世界>
自分が解釈したままを述べるならば、この歌は「心中」の歌ととるのがもっとも妥当なんじゃないか、と考えています。
後悔のようで、しかし少しも後悔はしていないような、そんな不思議な感情が、この歌にはあるように感じます。後ろ向き、否定的な語を並べながらも、それほど迷っているようには感じられないのです。『間違った恋をしたけど/間違いではなかった』とあるように、間違えたことこそが正しい選択だったんだとでも言うかのようなフレーズ。負け惜しみでも開き直りでもなく、これでよかったんだという奇妙な安らかさが滲んでいるように思えます。そんな、陰気なはずの空気の中の奇妙な清々しさが、死を決意した人間の感情と重なってくるような気がするのです。
『慣れない同士』の自分と「Be my last」=「一番大切な君」を、『何も繋げない』『私の手で』…
とはいえ絶対に心中の歌だ、なんて言い切るほどの自信はないです。ただ、たとえば『今夜一時間会いたい』とあるけれども、それじゃあ会って二人はどうするのか?と想像したときに、まったくその先の未来が思い描けなかったりするんですよね。非常に刹那的だし、危ういムードだし、上記のようにどこか悟ってしまっているしで。
ただし、『バラバラになったコラージュ/捨てられないのは』の、この「捨てられない」だけが、わずかに未来を感じさせる言葉になっています。もしかしたら、バラバラの欠片を捨てられないまま、ずるずると生きていく…そんな歌なのかもしれないなあ、とも思います。
どちらにせよ、今までの宇多田ヒカルの楽曲を省みると、ほとんど初めてと言っていいくらい、「内側」へ向かう要素で構成されている歌です。
「誰かの願いがかなうころ」もシリアスなムードの曲でしたが、あれは周囲すべての人を巻き込むほどの「外側」へと呼びかける歌だったことを考えると、ほとんど反転していると言っていいくらいです。『母さん』への呼びかけも、これは身近な人に縋りつきたい自分の心情を吐露しているだけです。
この「内向き」な音楽が誕生した背景は何か?…三島由紀夫ファンである彼女が自ら入れ込んで作ったから。…アメリカ進出に失敗した影響。…心境の変化。…迷走。あれこれ想像する余地はありますが、その辺りは当ブログの領分ではないので省きます。
ただ、宇多田ヒカルの起こしてきたムーブメントは、「内向き」気味な社会に対し「外向き」の言葉を無邪気かつ巧みにぶつけてくる強さに拠るところが少なからずあった、と思うわけでして。こういう内向的な歌にもやはり独特の風情を漂わせることができる実力者であることは疑わなくてよいと感じるんですが、しかし果たして「外向き」の印象をこちらで上回ることができるかとなると、ちょっとわかりません。
宇多田ヒカル
コメント(9)| Track back(0) | 2005年12月13日
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